伝記

Horace HURM (1880-1958), le kaléidoscope de sa vie

ホラス・ウルムの物語はフランスで始まったのではなく、ドイツ国のバーデン=ヴュルテンベルク州のシュトゥットガルトで始まった。 そこに住んでいた父方の祖父母は、ドイツに迫る脅威がなければずっとそこに住み続け、絶えず母国を離れることなどなかっただろう。プロシアがまもなく侵入し、この耐え難い自由束縛から逃れるべく、ウルム一家は自分たちが生まれた祖国を後にしたのだ。



1846年、一家はアルザス地域圏の小さな美しい村、ショトゥザイムに移住した。そこでホラスの父、レオン・ウルムが生まれた。移住した後、フランスで暮らしたい証として、ウルム家はすぐにフランス国籍を選んだ。

年月が過ぎ、レオンは一人前の男性になった。しかし、戦争が再発し、ウルム家はドイツから逃げ出すことになった。ローレヌ地域圏とアルザス地域圏が1870年にドイツ国に合併された時、ウルム家はもう一度、フランス国籍を選んだ。.


しかし、この戦争はフランスにも、ドイツにも、悲惨な結果を残した。特に1875年に、メス(ローレヌ地域圏の首府)が包囲された後、生活は困難になった。ウルム一家は再び亡命を強いられる。今回はパリに拠点を定めた。彼らはそこで、刺繍業者としての生活を始めた。

花の都パリではなく、モンマルトル(パリに合併され、パリの区の一つとなった町)のピガールにロッシュフーコー通り46番にある近いこじんまりした刺繍屋で1880年3月9日にホラスが生まれた。ホラスは一生、彼の生まれた「村」に関心を持っていた。

ホラスは成長し、5歳の頃、エリゼーモンマルトルで開催された子供向けの大舞踏会で、手品のショーを見て、夢中になり、手品師になろうと決めた。

二年後、ホラスが7歳の頃、ウルム家はジャン=ジャック・ルソー通りに引っ越した。ホラスは、1958年にこの世を去るまで、このアパートに住んでいたということは特筆に価する。

この時期の大事なことは、パレ・ロワイル庭園で幼友達と一緒に遊んだことと、メール・モランの売店(モランおばちゃんの売店)でホラスが遊ぶのが好きだった科学的な玩具だろう。同時に一緒に遊んでいた幼友達の中に、後に「パテ」という大手映画制作会社を作ったパテ兄弟もいた。


ホラスは、年少のときから科学・新しい技術に関心を持っていた。1889年パリ万国博覧会がきっかけとなり、ホラスは技術の世界へ導かれた。エッフェル塔の除幕がホラスの目前で行われたが、彼には、機械館に展示された機器が最も面白かった。トーマス・エジソン館に展示された「蓄音機」(録音機)に魅惑されたホラスは、まだ9歳であったが、どの学校に進学するのか決めたのだった。それはエーコル・サントラル(フランスの工学・技術系エリート養成のための高等教育機関)だった。しかし、運命は彼を別の道へ導いた。

1890年、10歳の頃、正月に父からプレゼントとして、カメラをもらったホラスには、また他の夢中になるものが生まれたのだ。

1892年、ウルム一家は一時的にローレヌ地方に移動した。実は、ホラスの母が重い病気を患い、田舎で静養しなければならなかったのだ。だから、母は自分の家族のところに戻ることにし、ホラスはメッツの母方の祖父・祖母と一緒に住み始めた。だが、このような強制的な静養にもかかわらず、母は1894
年5月18日に亡くなり、ホラスは母親を失った。その後、ホラスは腸チフスにかかり、それが原因で、一生虚弱体質ですごすことになった。このような不安的な健康状態と急速な成長のため、何ヶ月も床につき、学業もあきらめなければならなかった。大きな失望を味わったホラスは、このとき「やりたいことだけをやる」と決め、この原則を一生守り続けた。

エコール・セントラルへの入学やエンジニアになるという夢がかなわなくなったホラスは、父親の助言に従い、音楽の道に進むことにした。15歳の頃、オーボエ奏者としてナンシーの音楽学校に入学した。

同年、1895年3月22日、レンヌ通りのグラン・カフェで、リュミエール兄弟によって発明された「シネマトグラフ」(映写機)の初上映が行われた。このとき、映写機を作ったタバリという人が、後にホラスの無線電信機器を作る精密技術者になり、ホラスの忠実な友人でもあった。

この、映画の開花期において、ホラス・ウルムはルイ・リュミエールと、ロベル・ウダン劇場の経営者ジョージ・メリエスと親交が深かった。また、メリエスとは手品という共通の世界があった。

1896年10月にウルム一家はパリのジャン=ジャック・ルソー通りのアパートに戻り、ホラスの父親のレオンは「ルーブル百貨店」の刺繍売場の担当者として復職した。一方、ホラスは音楽の勉強を続ける。1898年にオーボエの優れた奏者であったジョルジュ・ジレ先生に紹介され、そのおかげでパリ音楽院に入学することができた。入学をきっかけに作曲家のジュール・マスネにも会えた。

1900年、新たにパリで万国博覧会が開催された。今回の目玉はポルト・マイヨ駅からポルト・ヴァンセンヌ駅まで走る初めての地下鉄の開通式だった。二回目となったパリ万国博覧会ではホラスは日本の美術、とりわけ、アジア圏の美術に興味を持ち、そういった簡素で飾り気のない小さな作品に影響を受けた。それで、「縮小化」ということが彼の無線通信機の特徴となった。

ホラス・ウルムは乱視を伴うひどい近視であり体がまだ弱かったため1901年に兵役免除された。(それでも戦争が突発したら召集される)

同年7月、家族の友人であるロワゾ=バイリという彫刻家の家で夏休みを送った。

1902年、22歳でオーボエ奏者として様々な音楽団に入団し(ピスター音楽団、ビクトル・シャルパンティエ音楽団、そしてコメディ・フランセーズの音楽団)、オデオン交響曲団でも代理として演奏する。夕方になるとホラスはトロカデロのコンサートホール、またはクラル・プレイエル・ガヴォの自宅で頻繁に演奏に参加していた。そのような音楽会がきっかけとなって、ピアニストのフランシス・プランテや作曲家のヴァンサン・ダンディとであった・


この頃から収入を補うため、コンサートで出会った知り合いに他のコンサートを開催してもらう。そして、ホラスは手品にも興味が深く、「手品師」として内輪の夜会、ミュージックホール、カジノ、グレーバン博物館、または海水浴のシーズンにロベール・ウーダン小劇場などの舞台に出る。

どんな美術にもずっと興味を持っていたホラスは、1904年から、父親の友人であった画家のアルベル・ベタニエの下で絵画を習いはじめた。

芸術家だったホラスの収入を補うために、父親のレオン・ウルムは「ウルム照会」を設立した。こうして、「ウルム照会」からの、かなりの補足収入とルーブル百貨店の仕事からの収入を1939年まで得続けた。

1906年8月9日、ごく内輪の結婚式でアリス・プレボと結婚するが、ホラスの自伝にはその私生活のことにあまり言及しない。彼はしばしばレピンヌ発明者コンテストを見に行った。そして、フランス製造者発明者協会に入会し会員として活躍するようになった。

1909年の9月に初めてコンテストに出て、「ヘリ蜻蛉」という発明を発表した。発明と言っても、おもちゃのグライダーのことだ。手品への興味を持ち続き、パリのソレニエ横丁にあった「ベル屋」手品物品製造会社を義兄のアルベル・プレボと共同で買う。そして、二人は無線電信で操縦できる小さい飛行船を設計し作り上げた。無線電信機が飛行する器械に使われるのは初めてだった。目標は劇場などで小さい飛行船から風船や紙吹雪を離れたところから放たせることだった。だが、商売がうまくいかなり、1910年に店を手放さざるを得なくなる。

その頃から、本格的に発明者になった。まずはトランプを配る「キドン」という器械を創った。そして、おもちゃ業界から離れて、「オンドホーヌ」という手持ち鉱石ラジオを発明し、1910年にレピンヌコンテストで金メダルを取得した。ホラス・ウルムにとっては喜ばしいものだったが、発明によって生計を立てるのがなかなか難しかったので、ロベールとカリエル研究所にセールスマンとして入社した。そのよい地位のおかげで収入を補い、無線電信など他に携わっていた活動を続けることができた。1912年に「フランスの鳥」という紙製グライダーのおもちゃを発表した。アルベル・ベタニエが描いた絵からそう名づけた。

1913年9月12日に、ウルムはCGR送信局会社でオーボエを演奏するように招待された。無線電信を通してモールス信号以外な音=音楽が聞こえたのは初めてだった。しかし、「ラジオ放送」が発表されたのは数年後、1921年10月だった。

1914年の宣戦布告でフランスの日常生活がいっぺんに変わっていった。ロベールとカリエル研究所の人員の一部が動員されたため、兵役に服しなかったホラスがブール・ラ・レーヌ工場の社長になった。この研究所は絆創膏と腸線を軍用薬局に提供していた。

この際、ホラス・ウルムは多くの軍事責任者と出会うが、その中には軍事電信を担当しているフェリエ指揮官と彼の協同者であるモロー、ペルティエ、ペレ=メゾヌーヴもいた。軍事電信の建物はラトゥール=モブール通りの軍の薬局の隣にあって、ホラス・ウルムはそこを通るたび必ず寄ってしていた

1915年に、ホラス・ウルムは一時的に他の活動を止めなければいけなくなり、ファーブルという昆虫学者の本を読み、そのテーマに夢中になっていた。甲虫目、チョウ目、トリクイ蜘蛛、トンボなどは、彼の主な研究・収集のテーマともなる。

ホラス・ウルムは、それを自分の生きがいであるテーマと結びつけた。触角を使って虫がTSFの超短波送信機・受信機のように、情報を伝達出来ると仮説を立てる。超短波は、非常に弱い電力で長距離の伝達を可能にするのだ。日本の芸術と同じように、ホラス・ウルムは虫から発想を得て機器を発明している。虫との類似は、極限的な小型化に次いで、ホラス・ウルムの無線電信機器の2番目の特徴だ。

1916年に、ホラス・ウルムは「ポリコンタクト」という狂わない高感度の鉱石ラジオを発明する。フェリエ大佐までこの発明品に夢中になり、軍事電信のために多くのポリコンタクトを注文したのだ。ポリコンタクトの特許は、1916年3月21日にフランス産業財産庁であるINPIによって与えられた。

何ヶ月か後、兵役免除者だったホラス・ウルムも動員される。しかし、フェリエ大佐と知り合いだったおかげで、彼は第2胸甲騎兵連隊に入って、CGR(無線電信総合会)の一員になることが出来る。

ホラス・ウルムの体は相変わらず弱く、1917~1918年の冬の厳しい寒さは彼を衰弱させる。繰り返す気管支炎や風邪、そして健康全体の欠陥と弱視があるためウルムは1918年4月に兵隊免除を与える機関の判断によって、文民の生活に戻った。

第一次世界大戦が終わってから、ホラス・ウルムはロベルト&キャリエールラボラトリーでの仕事へ復帰する。ウルムが動員された頃から、彼のポストは空いたままだったので、それ以来ポリコンタクトを備えた「オンドフォン」という物の開発を再び続けることが出来た。

1920年に、ホラス・ウルムは無線電信に専念するため、そして音楽家・手品師・カメラマン・発明家としての活動を再び始めるため、ロベルト&キャリエールラボラトリーを辞めた。

1921年にホラス・ウルムは「ミクロディオン」というランプがひとつだけ設置された小型受信機を発明する。1922年10月の無線電信の展覧会に出展することにより彼はミクロディオンの注文を幾つか受けた。1921~1924年の間にウルムはMP1・MP2・MP3型(数字はランプの数を示す)の折り畳み式ミクロディオンシリーズを開発・商品化する。それから1924年から1926年まで、小型の折り畳み式「ミクロポスト」の開発と商品化を行った。

既に1923年からホラス・ウルムが作った製品に豊富な多様性がありながらも、彼は特許の実施許諾を支払わない「小規模の製作者」からの不正な競争について不満を表した。ウルム社は不安定な経営状態に陥った。

ホラス・ウルムが提供していたミニチュア化され極めて洗練されたスタイルで、高級家具材なしの巨大な黒い骨格の虫は、革新的・前衛的過ぎて、潜在顧客の過半数を引き付けることが出来なかったのだ。彼の主な顧客は、ボロメ王子のような貴族、ルイ・リュミエールのような実業者、ガストン・ドゥメルグ大統領のような政治家、外科医、ヴァンサン・ダンディとギュスターヴ・シャルパンティエという作曲家のような芸術家、キャバレーの歌手・踊り子だったジョゼフィーヌ・バケルなどだった。

同年、ホラス・ウルムはロベール=ウーダン小劇場の動産・不動産査定のエキスパートに任命される。この劇場は彼の友人のジョルジュ・メリエスのものだったが、1910年に倒産し、その収用のためにエキスパートになったのだ。

1924年に、ホラス・ウルムは「シャルモフォン」という発明を開発するために会社を作って、ブルネというもう1人の無線電信機器製作者と連合する。ホラス・ウルムは発明家であっても、本来音楽家だったので、彼が作った「シャルモフォン」と「スーパーヴォクシア」という蓄音機は、技術的に高級な製品だった。ウルムは機器の音質の良さを大切にして、その分野で幾つかの特許を登録する。

1925年に、シャルモフォンの開発会社はもはや機器の製造費と特許の実施許諾の費用の高さについていけなくなり、設立後わずか1年で破産を申し立てる。

しかしながら、同年に行われた装飾・工芸美術の万国博覧会の時、ホラス・ウルムは「ミクロディオン」という受信機のおかげで「グランプリ」という賞をもらう。そのうえ、ウルムはテアトロフォン用の「音清浄機」を発明する。「テアトロフォン」という機器は家で電話線を使ってコンサートや劇を生放送で聞くことを可能にする。

1926年に、ホラス・ウルムは技術的な進歩を強いられる。それは自分の受信機を直接反応アンプリフィケーションというシステムからスーパーヘテロダインのシステムに移さなければならないということだった。

そして、ウルムはミクロディオン=モヅラダインとMM4・MM6型のミクロディオン=モデュレーターを開発する。

1927年からホラス・ウルムはミクロディオン=モデュレーターの他に、折り畳み式のループアンテナ(バスク・ディスロ・スヴェルトなど)シリーズを提供する。

同年、踵に厳しい関節炎の発作を起こし、ウルムは床に就かなければならなかった。ル・ラヴァンドゥへポール・クロの正面にある東洋風画家の友達のエミル・デュラオグの家に休養しに行く。

ウルムは再びパリでの活動を一時的に中断する。休まざるを得ない事情にある彼は、絵・読書・詩に没頭して、そしてポール・クロ島のことにも夢中になる。

1931年4月14日、ホラス・ウルムはモンルージュの電気と計算機工学のグランゼコール高等電気学校で行われた最初のフランス公共放送を視聴した。講堂は満員だった。そこで、ルネ・バルテレミやルネ・バルテレミのアシスタント ストレルスコフだけでなく、テレビジョン分野の他の先駆けのジョゼフ・ブラミと出会った。ジョゼフ・ブラミが後に「ル・ヴィジョラ」と呼ばれる格段の機械的なミニチュアテレビを製造した。二人の協力の結果だったかもしれない。その格別の日の写真が6号の1945年10月の「フランス公共放送」と言う新聞に発行される。この写真はルネ・バルテレミがホラス・ウルムに説明している姿を示している。

1931年11月に、ホラス・ウルムにとって重要な支えだった父親がなくなった。同じ月に夫人のアリスと別れた。離婚は当時珍しかったのだが、その判決が1932年6月29日に言い渡された。

ホラス・ウルムは、ビジネスの方もあまりうまく行かず、1932年にフランスでライセンスを使おうとしていた「Point-Bleu」という会社の提案を応じるしかなかった。新しく構成された会社「Société Française Point Bleu」の社長になった。しかし、重要な決断はベルリンにある本社「Blau-Punkt」で行われていた。

1934年に、「Société Française Point Bleu」と破約し、ジャン=ジャック・ルソー通りに戻り、活動を再発した。会社の名前を変えて、「ウルムとドゥプラ電波商会」と名づけた。同年、クラウスの「百写真」というカメラを入手した。

1935年に、録音機「ヴォクシャ」を無線通信フェアに発表した。当時、ホラスは1000枚ほどのレコードのコレクションを持っていると述べている。 作曲家のギュスターヴ・シャルパンティエに勧められ、「ヴィウ・モンマルトル」の考古芸術歴史学会に加入することにした。会長のポール・ヤキがホラスの加入の教父となって、ホラスは「モンマルトルア」になることが公認された。

1936年に、フランス写真学会はホラス・ウルムにクリシ通りにある迎賓館を貸し、モンマルトルが撮影された写真の博覧会を行った。彼の「故郷」に激情を感じていたため、様々な角度に撮影した。芸術アカデミーの写真史料部の部長ロール・アルバン-ギヨは第31回の国際写真芸術展覧会のカタログを図示するためにその写真のいくつかを選んだ。選ばれた写真の中に「フレデ」と呼ばれていた「Lapin Agile」キャバレーの店長フレデリック・ジラルの写真がある。

1937年に、ホラスはシャイヨ宮に行われた第三回国際展覧会に参加し、壮麗な録音ラジオを提示した。一年後、グラン・パレの身廊に行われた無線通信フェアで録音機「ヴォクシャ」を提示した。

1939年9月の始めごろに、パリ市民の流出と相棒のドゥプラ氏召集されたため、ホラス・ウルムがまた活動を止めることにした。このきっかけでジャン=ジャック・ルソー通りのアパートを一時的に残し、モンマルトルのノルヴァン通り26番に引っ越した。仮の記者兼写真家として月刊誌「昨日、今日、明日のモンマルトル」に携わり、「モンマルトルの公式写真家」と呼ばれるようになった。1940年に彼が書いた詩「コランクールの橋を渡れば」が発行された。

ホラス・ウルムは「ウルム&ドゥプラ電波商会」を解消し、録音機「ヴォクシャ」と「スーパ・ヴォクシャ」という竹で作られた針の製造や活用にしか徹しなかった。しかし、1941年のパリ・フェアの発明品コンテストに竹の針の袋と録音機「ヴォクシャ」を発表した。

1943年5月「蓄音機の夢中にさせる物語」という本を出版した。モンマルトルに仲間や友人が沢山できた。もっと早くモンマルトルに戻っていたら、キャバレーの「Lapin Agile」によく来ていたロラン・ドルジェレッス、パブロ・ピカソ、ピエル・マック・オルラン、モーリス・ユトリロなどの芸術家と知り合うことができたかもしれなかったとホラス・ウルムは残念がった。

1946年3月3日に、ホラスは堂々たる原稿「私の人生の万華鏡」を書き終った。しかし、出版されなかった。ホラス・ウルムは亡くなるまで「ヴィウ・モンマルトル」の協会で活動を続けた。彼の堂々たる昆虫コレクションはドゥルオの競売で全部売れた。

1958年8月16日に、ホラス・ウルムは78歳でこの世を去った。パンタン墓地に埋葬され、職人という職業として登録された。